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Nossy (のっし-)です。



誰に何を云われても、誰にどう見られても

僕は僕でしかなく、


そして、僕なりに一生懸命生きている。



だから、いいんだ。



キミが出来る事を僕は出来ない。

僕が出来る事をキミも出来る。




それでもいい。




『自分の代わりなんていくらでも居るし』




そんな言葉が近くで聞こえた。



そんな訳がない。


この世の中は生産性がすべてなのか?


そんな阿呆な目安が常識というのならば

僕は非常識でいい。


そのゲームに僕は乗らない。



だからといって僕はなにかを諦めた訳じゃない。



生産性や成績や数字はとても目立つ分かりやすい
モノである。



けれど、それだけで人が図れるか?


そんな薄い観察しか出来ない組織ならば

いつか空中分解してしまうだろう。




数字は大事だ。


矛盾しているようだが、それは知ってる。



だけど、うわべだけの数字を追いかけていても

本物には辿り着けない。


数字が得意という人に限って、それを知らない。



数字とは人と密接に関わっている。



数字とはシステムでも、商品でも、

概念でも、お金でもない。


人間である。



人間であるという事は入念なケアが

必要なのである。



システムも商品も概念もお金も

全部、元を辿れば人間に辿り着く。



一人として同じ人間はいない。



だから、沢山の人間を同じ色彩に

閉じ込めたり、塗り替えたりする事はできない。




各人にそれぞれのスピードがある。

それぞれの色彩がある。

それぞれの生きざまがある。

それぞれの得意がある。

それぞれの発見がある。



『この会社は❰赤❱です』




そうやって動くのはひとえに効率の為である。



確かにみんなで一斉に❰赤❱をやったほうが

効率が良いようにも思える。




だが、RRG ゲームで全員❰勇者❱で

大魔王に勝てるだろうか?



戦隊モノで全員❰赤レンジャー❱で

悪の組織に立ち向かえるだろうか?




格闘家や魔法使い、商人、賢者、踊り子も

必要ではないか?



青レンジャー、黄レンジャー、

桃レンジャーも居るに越した事はない。




それは所属する組織によって色彩や得意は

変わるだろう。



ある組織では勇者だった人が、

また違う組織では僧侶になったほうが

動きやすいかも知れない。



全員、勇者にして競わせても

全員が傷だらけアザだらけになって
終了である。




日本の組織の多くは全員を勇者に
仕立てあげようとするきらいがある。



勇者になる為の教育しかしない。




確かにみんな勇者になれる可能性はある。


けれども、明らかに魔法使いの要素が強い、

みたいな人も居て、



そういう人は当然、勇者養成の教育に疑問を

抱くに違いない。



そして、どう頑張っても勇者になれない

自分に『ダメ人間』のレッテルを
貼ってしまうかも知れない。




だが、実際はそんな事はないのだ。



社会に出て、勇者に徹しようとして、

ムリで、

そして自分の心の声と対話して


やっと感覚を取り戻す。




『あ、僕は魔法使いだったんだ』



って。



そう。あまりに勇者ばかりがピックアップ
されるモノだから、


勇者になれない人は落伍者みたく思われて
しまう風潮がある気がする。




いくらでも役割があるのに。



よくて、格闘家や僧侶の勉強は
あるかも知れない。



だが、商人や踊り子なんていう職業が

ある事すら

日本の教育では分かりにくい。



天性の踊り子は、


『私は完全に落ちこぼれなんだ』


と、匙を投げてしまうかも知れない。




初期設定が『勇者』という考え方は

適切なようでいて、


実はかなり危うい。



多分、沢山の才能の芽を摘んでいる。



ハリ-・ポッターの世界でも、



グリフィンドール、ハッフルパフ、

レイブンクロ-、スリザリンと



4つからはじまる。




勇者、主人公、...



そういう考え方はかなり危うくて薄い。

そして、個性潰しである。




笑顔が素敵だ、とか

絶対に休まない、とか

何かについて馬鹿みたいによく知ってる、とか

友達思い、とか

料理が得意、とか

歌が上手い、とか

顔がめちゃくちゃ美人、とか

兎に角器用、とか

癒し系、とか



別に勉強が出来なくても、

成績がよくなくても、




各人にそれぞれの持ち味があるのだ。


この議論についての一般社会の見解はこうだ。




『いや、ま、確かに云ってる事は解る。

が、組織で動いている以上、

郷に入っては郷に従ってもらわなければ困る。

効率も悪いし、問題だって起きてしまう』



ハッキリ云う。



一つの組織で勇者的なポジションになる
人間など

ほんの一握りでしかないのだ。




あとは、格闘家や魔法使いや僧侶、

商人や踊り子だったりする方が多い。




しかし、組織は踊り子を勇者に

しようとするのである。



こう書くと馬鹿げている感じであるが

実際、こういう事は日常茶飯事である。




確かにある程度は合わせる必要はあるし、

そんなに踊り子なのだとしたら、



踊り子にふさわしい場所へ行けばいいじゃないか。


そう、組織は云う。



だが、踊り子を勇者にせずに

その組織の中で活躍させる事は


不可能ではないのだ。



そこに来たからには踊り子にも

その組織で学ぶ事がきっとある筈だ。



しかし、恐らくそれは勇者の成り方ではないと
思う。



踊り子が『ああ、私はやっぱり勇者ではなく

踊り子なんだな』


と強烈に気付く機会として使ってもいいが



それだけというのもまた寂しい。



踊り子としてその組織での活躍の仕方が

きっとある筈なのである。


けれども、それは流石に本人だけの力では

ムリなのである。


組織を運営する側の懐の深さも必要だ。



『ある程度の圧力や試練は必要なのさ。

その中で処世術が磨かれるのだとしたら

それでもいいんじゃない?

甘やかすのも良くないよ』




成程、わからないでもない。しかし、
アンフェアではないか。


わざわざ苦しみなど必要なのか??




.....


なんだか書いていて『ルサンチマンでしょ?』

としか思われないと思うと


寂しくなる。




でも、そうではない筈だ。



僕は一応、30年以上生きている。


そして、これが率直な感想だ。



愚者と思われてもいい。



僕はいつでも取り敢えず『云う係』なのだ。


僕は現実(リアル)でも今、書いている様な事を

上司などに云うタイプである。


取り敢えず、思った事は云うのである。



自分でも常識とは違う事は充分に承知しているし

現社会的でない事も理解している。



でも、なんか云っておく。



阿呆、という事になっていい。


角(かど)を立てずに生きるのは

見せかけの安心感を得られる。



しかし、とても詰まらない。


踊り子なのに踊らないなんて

それのほうが馬鹿げてる。



自分を踊り子だと知っていて、

勇者の格好して腰に重たい剣を毎日ぶら下げて

スライムと戦う日々。



馬鹿げてる。



踊り子の仕事は戦いではない。


チ-ムのメンバーが戦闘で疲れた時に

華麗なダンスを披露して


エンターテイメントを提供し、

気持ちを明るくしてあげる事なのである。




商人もそうだ。


商人は剣を振り回したり、盾で身を防ぐ

練習をしてもしょうがない。



この剣がいくらで売れるか、

どれだけ安く買って、どれだけ高く売るか、

どういう風に人間関係を作るか、



そういう事に時間を費やすべきだ。



商人が剣を振り回していても

勇者や剣士には一生敵わない。


でも、商人は商売を展開して、

お金を稼ぎ、戦闘チ-ムが更にいい武器を

揃える為の役に立つ。




夢物語か?




そんな事はない。



ほんとうに豊かになった。

大体、何でも手に入る世の中だ。



だが、そんな世の中で人の求めるモノは

何であろうか?



それは、人である。



人は人を求めるのである。



どんなにAI の機能が進化したって、

どんなにテレワ-クが定着したって、

どんなにハイテクになったって、

どんなにWITH コロナだって、



人は人の温もりと愛を求めてさまよう。




これは未来永劫かわらない真実である。



そこに人の温もりがなければ

どんな完璧なシステムも、

どんなに優れた商品も、


絶対に粉々に砕けてしまう。




最初から人であり、最後に残るのも

人なのである。




この世界で一生懸命生きているすべての人々。



時に誤解し、時に傷付け合い、

時に争う。



心が冷たくなる。凍える。



愛が欲しい。そう思う。


ほんとうは常に愛の中に居る。


でも、その事を人はすぐに忘れる。



忙しいから。

スピードに殺される。


必ずしも予定がぎゅうぎゅうだというのが

スピード狂とは限らない。


心が騒がしいのもまた令和なのだ。



僕は昭和の生まれだが、確かに覚えている。


あのすべてがゆったりとしていた

ポカポカした何にもない日々を。



深呼吸して、空を流れる雲を眺めて。



ぶきっちょでもいい。


他人に愛を与えながら。



輝ける場所を求めてどこまでもどこまでも。



長いんだ、人生は。






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