Nossy (のっし-)です。
前回に引き続き、ポ-ル・マッカートニーについて語っていきます。
恐らくこれで最終回......の筈。
●失われた週末
...前回1980年まで行っちゃったんですが、
時計の針を1973年の9月に戻しますね(笑)
この話はどちらかというとジョン寄りの話なんですが、
ポ-ルも重要な役割を果たしましたのでサッ、
と語ります。
『私たち、少しの間距離を置かない?』
これはヨ-コからジョンへの発言でした。
ジョンにはかなりショッキングな出来事でした。
『えっ、なんで?俺、なんか悪いことした?』
↑これは心の声です。
ヨ-コは突然、別居を提案し、どこかへ旅立ってしまいます。
理由は.......不明です(笑)
でも、ジョンに少し疲れたのかな、と。
ジョンを愛してない訳ではないんです。
しかし、ジョン・レノンとずっと一緒に居ると
結構疲れるのかな、と(笑)
ワガママだし、好き放題するし、かといって
時にものすごくヘヴィ-だし。
天才なんですけどね。
狂人スレスレの天才ですからね。
ヨ-コもなかなかのもんだと思うんですが、
ちょっとジョンから離れて自由にやりたいと考えたのではないかと思いますね。
それで恐ろしいのが、自分の代わりをあてがって
去っていくんですよね、ヨ-コは(笑)
その時にジョンの秘書をしていた中国系アメリカ人のメイ・パンです。
ヨ-コはメイ・パンに、
『あなたジョンの事が好きなんでしょ?
私は出ていくけど、誘われたら断らないようにね!』
そして、思惑通り寂しくなったジョンはメイ・パンとくっ付きます。
そして、ヨ-コはメイに度々電話をかけて、
ジョンの様子を報告させていたのです。
全然知らない女とくっついちゃうと行方がわからなくなって厄介だから、
管理出来る女とくっつけて様子を見ようとは...
いや、ヒドイ事云ってますが、実際、この行動は
そういう解釈しか出来ませんからね(笑)
それで、ですよ。
ああ、すっかりポ-ルがどっかに行ってしまってますが。
ジョンはですね...
メイ・パンと付き合っていた時代が幸せだったように思うんですよ。
実際、今となってはジョンのソロでよく知られているのは、
『ジョンの魂』とか『イマジン』とか辺りで、
それはヨ-コとの関わりが強い時期の作品ではあるんですが、
いわゆる❰失われた週末❱(ヨ-コとの別居期間)
には、
『心の壁、愛の橋』というアルバムを発表していて、
ジョンのソロでは唯一全米1位になったアルバムなんですね。
とてもあたたかい雰囲気のアルバムです。
1974年の3月には約3年ぶりにジョンとポ-ルが再開する出来事があったりして。
楽しくセッションしたりするんですね。
ただ、ポ-ルをよこしたのはヨ-コで、
『ジョンにそろそろ帰ってきてもいいと伝えてちょうだい』
という事で(笑)
パシリにされてますが、結果的に2人の再開の機会になったのは
良かったなという感じですね。
結局、1975年に入ってすぐヨ-コは帰ってくるんですが、
『寂しかったわ~』っていうのではなく。
ジョンがメイ・パンに云った最後のセリフは、
『ヨ-コが帰ってきても良いと許してくれたんだ、
君の事は愛しているけど、...ごめんよ』
まぁ、何だか切ないですね。
でも、その年のジョンの誕生日に
ジョンとヨ-コの子どもであるショ-ンが生まれるんですが。
●『アンソロジー』●
...80年代はビ-トルズの株が下がっていましたが、
それも80年代後半~90年代半ばに連れて
ぐ-んと回復。
でも、ポール単独で云えば、1982年には
スティービー・ワンダーとの共演で 「エボニー&アイボリー」という曲を発表したり、
マイケル・ジャクソンとの親交を深めて、
「Girlfriend」という曲を提供したり、作曲を教えたり、
『スリラー』に共演した曲「The Girl Is Mine」が入ったり、
他にもマイケルとの共作曲
「Say Say Say」「The Man」を
自分のアルバム『パイプス・オブ・ピース』に収録したり。
1985年のライブエイドのトリを飾ったりもして、
相変わらずの活躍だったんですが。
マイケルには、
「曲の版権を買うといいよ、ビートルズの曲を買うといい!」
とか軽口をたたいて、
『スリラー』その他でガッポリ稼いだマイケルにビートルズの曲を全部買われてしまって
険悪になったり(笑)
欲を出すとろくな事になりませんね。
マイケルも変に純粋だから恐い(笑)
脱線しましたね。
それで、1987年が転機かな、と思うんですが、
この年はジョ-ジの久しぶりのアルバム『クラウド・ナイン』が大ヒットしたり、
『SGT.ペパー』の20周年記念の年という事で、
ビ-トルズの全アルバムがCD 化されたんですね。
(1987年はちょうどレコードからCD への移行期だった)
そこでまた売り上げを伸ばすと共に、
新しいファン層の獲得もあったと思います。
ポ-ルはエルヴィス・コステロという盟友に出会って
刺激を受けていい作品を作りました。
ポ-ルにはイエスマンはダメなんですよね。
キチンとダメ出ししてくれる相手でないと。
コステロはいい意味で厳しいですからね。
そして、90年代に入ると若い世代のロックバンドたち、
Blur(ブラ-)とかOasis(オアシス)なんかが起こした
ブリットポップブーム(アメリカの音楽に対抗する動き)が爆発。
自国(イギリス)の音楽賛美の風潮が出てきて、
そうなると当然ビ-トルズは持ち上げられて、
元ビ-トルズたちも便乗したのか分かりませんが
ビ-トルズの活動を振り返る、
『アンソロジー』というプロジェクトを始動。
その中で、ジョンの未完成の曲のデモに、
他の3人が演奏を追加して完成させた曲を
新曲として発売するというイベントが達成されました。
1995年、約25年ぶりのビ-トルズの新曲には、
『まだ魔法は解けていない』と思わせるだけのモノがありました。
特に「Free As A Bird」は出色の出来で、
時空を越えたような仕上がり。
けれど、ジョ-ジのポ-ルへの嫌悪がヒドイんですよね(笑)
アンソロジーの映像版では、ジョ-ジの自宅スタジオで当時を懐かしんで談話する様子もあるんですが
ジョ-ジは明らかにポ-ルに対して終始、
否定的な態度でした。
それだけこじれていても音楽を一緒にやると
魔法は起こっている。
これは何なのでしょうね。
そんなジョ-ジは2001年にガンで他界。
●『Let It Be...Naked』●
...これは2003年に出し直された『Let It Be』の
アルバムです。
元祖は1970年に発売されたのですが、
このアルバムは当時からひと悶着ありまして。
このアルバムが出た時にはビ-トルズはもう実質
解散してしまっていましたからね。
それなのにアルバムが出たのは、周りの大人が
『ビ-トルズが出した赤字を埋めるには
もう1枚アルバムが必要だ』といって
かなり強行的に出されたモノだった訳です。
ビ-トルズのメンバーもほとんど仕上げには
関わってなくて、
特に他の3人と仲違いしていたポ-ルは全然
ノ-タッチでした。
勿論、収録されている曲や演奏はビ-トルズたちの
モノですが、
1969年1月に行われたゲットバックセッションという
結果的に失敗に終わったダラダラとしたセッションの中から
使えそうな素材を使って、それを繋いで
何とか1枚作ってほしい、と。
俺たちはもうビ-トルズとして新曲を作る気にはなれない、
というのがメンバーの意見だったのですね。
それで、そのゲットバックセッションのデモを
ジョンがフィル・スペクターというプロデューサーに頼んで
『まかせるから、ヨロシクね』
として、完成させたんです。
フィル・スペクターっていう人もかなりの曲者なんですが、
この『Let It Be』に関してはかなり素晴らしい仕事だったと思います。
よくぞこの玉石混交のガラクタのデモの山から
錬金術の如くこんなアルバムを作れたな、と。
しかし、ポ-ルは納得せず。
特に「The Long And Winding Rord」に分厚いコーラスを加えた事はポ-ルの逆鱗に触れ、
「この曲はこんなベタベタに甘い曲じゃなくて
もっとシンプルでロックなんだ!」
と。
そんなこんなで2003年、
『僕の解釈で作り直すよ』という事で出来上がったのが
『Let It Be...Naked』です。
結果は...微妙(笑)
好き嫌いは人それぞれだと思いますが、
私は元のままのほうがいいですね。
しかし、フィル・スペクターも結構危ない人で、
丁度その2003年に自宅で女優を射殺してしまったんですよね。
その容疑を否認し続けたんですが、結局、敗訴。
今もまだ檻のなかに居ます。
●そろそろ終わりますよ~(笑)●
...はい。
私生活では1998年に最愛のリンダを乳ガンで亡くします。
(お母さんと一緒だ!)
2002年に別の女性と再婚するも泥沼になって離婚。
2011年には更に別の女性と3度目の結婚。
(68歳で再婚って...)
そしてアルバムもずっとコンスタントに出し続けて、
ヒットもしてます。
2019年現在も現役バリバリ、
完全に第一線で活躍して居ます。
芸歴は60年以上。
一番長く続けてるロックスターですよ。
なんか途中、結構貶してしまいましたが、
やっぱりロックンロ-ラ-ですからね。
問題をまったく起こさないのも詰まらないというもの。
『ま-たアイツ、バカやってるよ~、
でもスゲーよなぁ』
って云われるくらいのが丁度いい訳です。
と、いう訳で、
それいけ、ポ-ル・マッカートニー!!!
100歳くらいまで生きてほしい。
あなたなら出来る。
憎まれっ子は世にはばかるからね。
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