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Nossy (のっし-)です。


前回に引き続き、ポ-ル・マッカートニーについて
語っていきます。



●ジョン・レノンとの出会い


...運命の日は、1957年の7月6日(土)でした。



この日は、ジョン・レノンが組んでいたバンド

❰クオリ-メン❱が地元の教会で催されたお祭りに

出演し、


演奏を披露したんですね。



実際、この日までポ-ルとジョンは面識がありませんでした。



年齢も違えば、学校も違いましたからね。



そこでポ-ルははじめてジョン・レノンの演奏を観た訳です。



『演奏はめちゃめちゃだ、だけど兎に角、

存在感がスゴい!』


これが感想。


ジョンはギターでなくバンジョ-をかき鳴らして、

適当に叫びまくっていただけでした。



何かの曲をやっていたつもりだったのでしょうが、


ポ-ルの話では歌詞はひとつも合ってないし、

楽器も全然弾けてなかった。



それでもジョンの存在感があまりにも衝撃的だったという訳です。



演奏後、共通の友人であったアイヴァン・ヴォ-ン
の仲介で


ジョンとポ-ルは邂逅します。



そこでポ-ルは自分の知っている曲をギターで
サラリと披露して見せました。


ジョンは顔には出さなかった様ですが、

とんでもない衝撃を受けたそうです。


そして、1週間考えました。



『今のままで磐石なバンドのボスの地位を維持するか、


下手すると自分より何もかも上かも知れないヤツを引き入れて

バンドの力を引き上げるか......』


ジョンは後者を選択し、ポ-ルはクオリ-メンに加入しました。



1年後、ポ-ルは友人になっていた同じ学校に通う
ギタリストで1つ年下のジョ-ジ・ハリソンを

ジョンに紹介します。



ジョ-ジは2人よりも多くギターのコ-ドを知っていたし、

ギターの腕も発展途上でしたが熱意が見えたので


ジョンはジョ-ジも加入させます。



こうして段々と主要メンバーが揃っていく訳ですね。



●ポ-ル、ベ-シストになる


それから数えきれないほど色んな事があるんですが

そこを詳細に語っていると何が何だか訳が解らなくなってきますので(笑)



割愛につぐ割愛でいきます。



兎に角、地元(イギリスの片田舎)でチマチマやっていてもラチがあかないという事で、


バンドは西ドイツのハンブルクという町へ行き、

店で住み込みの仕事を始めます。


仕事といっても、ウェイターとかではなくて、


そこは店の専属のバンドとして雇われるという事ですね。


そこで毎日6~8時間ほどライヴをやって技術を上げていきました。



日本だとライヴと云えばライヴハウスのイメージが強いと思いますが、


向こうはまず食事と酒ありき、バンドはあくまでも

『余興』です。


詰まり、誰も聴いちゃいないという訳ですね。


盛り上がっている宴会場で奏でられる琴とか笛の
演奏とか

真面目に聴いたりしませんよね?



余程存在感がない限りは.....





その時のメンバーは3人以外に、

ジョンの地元の親友のスチュア-ト・サトクリフ

がベ-ス、


特に友人ではなかったのですが、ドラムが叩けるからという事で地元から連れてきていた

ピ-ト・ベスト、


この5人編成でした。


狭くて窓もないような劣悪な部屋1つに5人で暮らし、


給料は雀の涙。


ドイツ語は当然わからないので簡単なコミュニケーションすら困難でした。



その上、演奏はウケない。



店の屋根裏でふざけていてボヤ騒ぎを起こし、

店主にキレられて強制送還させられたり、


歳をごまかして参加していたジョ-ジの事がバレて

やっぱり帰らされたり、


別の店でやるのは禁止というのを破って
仕打ちを受けたりと、


まぁ、色々ありました。



でも、最終的には音楽の実力を付ける事で

全部乗り切りました。




それで、その頃、アストリットという写真家志望の女性とスチュア-トが恋仲になります。



元々音楽より絵のほうに興味が強かったスチュア-トはビ-トルズを抜けて

ドイツで画家を目指す決意をします。



ここでベ-スが居なくなりました。



それで、ベ-スは必要だし、誰か当てはいないものか、

とメンバーが思っていた矢先に、


ポ-ルのギターが壊れる事件が発生します!


ポ-ルは観念して『僕がベ-スやるよ』と云いました。



ポ-ルはあんまりベ-スをやりたくなかったんですね。


ギタリストのほうが目立つし、ポ-ルはギターも

ジョ-ジより全然上手かったんですから。



でも、バンドの為にあきらめた。


ここに『ベ-シスト、ポ-ル・マッカートニー』

が誕生します。



この意義はとても大きかった。




詰まり、ベ-スを、縦横無尽にメロディーを奏でる楽器へと変貌させた、

という事ですね。


「Something」とか、歌メロと匹敵するくらいの

ベ-スラインを作っちゃって。


もうクラシックですよね。


バッハの「G線上のアリア」を聴いて下さい。


ポ-ルのベ-スはそういう事ですよね。


しかも、ただ対位法的なパターンだけでなく、

もうほんとうに好き勝手に動いてます。


元ギタリストのベ-シストというのは、

メロディアスなベ-スラインを開発するんですよ。



脱線しましたね。



このあと、バンドはメキメキと実力を上げて、

故郷のリヴァプ-ルに帰還。



ドイツでの厳しい修行に耐えて抜群に成長した

ビ-トルズにとって、


地元のへなちょこバンドは雑魚でした。


一瞬で頭角を現し、デビュー決定。


それに際して、技術に難があったピ-ト・ベストが首になり、


ドイツでライバルバンドのドラムをやっていた

リンゴ・スターが引き抜かれて


ジョン、ポ-ル、ジョ-ジ、リンゴの

ビ-トルズとして1962年10月5日、

「Love Me Do」のシングルでメジャーデビューします。


ジョンとポ-ルが出会って一緒に音楽を始めたのが

1957年7月。


メジャーデビューが1962年10月。


実際に話題になるのは1963年に入ってからです。



その間、6年。


下積み6年です。


解散が1970年。メジャーでの活動は8年。



ビ-トルズは一夜でスターになった訳ではまったくありませんでした。



●ジェ-ン・アッシャ-との出会い


...メジャーデビューしたビ-トルズは瞬く間に

スターの仲間入り。


大金も稼ぎ、今までのギリギリの暮らしが嘘の様。


ジョン、ジョ-ジ、リンゴはロンドンに豪邸を建てました。


ポ-ルは?



1963年4月に番組撮影で出会った女優のジェ-ン・アッシャ-と恋に落ちます。


ポ-ル20歳、ジェ-ン17歳の出会いでした。


そして、63年の末には彼女の実家に居候させてもらう事になりました。


ジェ-ンの家はミドルクラスの家柄で、

父親は医者、母親は音楽教師でした。


子どもには自己表現の大切さを教えていて、

家は絵画、書籍、楽器であふれていました。



そして、ジェ-ンは飛びきり活発で元気で上品な

女の子でした。



ポ-ルはジェ-ンに首ったけでした。



しかし、ジェ-ンがあまりに活動的で、

興味関心事が出来ると、すぐさま旅行に出掛けたり

家を飛び出していくので、


ポ-ルは焼きもちと寂しさでいっぱいでした(笑)

(まぁ、ポ-ルも相当忙しいんですが)


この関係は1968年まで続きますが、その間に書かれた

ポ-ルの多くの曲、特に女性に対して愛を語ったり

乞う内容の曲は


ほとんどがジェ-ン宛のモノでした。


この前記事を書いた『Rubber Soul』でも、

「You Won't See Me」(君は僕を見ようとしない)

や、

「I'm Looking Through You」(君はいずこへ)


と、嫉妬深く女々しい(笑)



でも、それだけ一途かと思いきや、

『結婚前だからいいでしょ』という事で


浮気はしまくるポ-ル。



1967年12月25日(クリスマスだ)に婚約をするものの、


1968年には正にポ-ルの浮気現場にジェ-ンが遭遇。

破局します。




●花のない花束


...ビ-トルズ初期というのはかなりジョン・レノン色が強いです。


勿論、ポ-ルも最初からいい曲を書き、

ライヴでは盛り上げ役はきまってポ-ルだし、


スタジオでのアルバム作りも、楽器が一番弾けて

音楽的な素養も一番豊富なポ-ルが仕切っていました。



プロデューサーのジョ-ジ・マ-ティンがはじめて

4人と出会った時も、


『一人だけ好青年であとは何だかネクラそうな奴ら』


という印象だったそうで。


でも、ブレイクしたのは

「Please Please Me/Ask Me Why」のシングルで

どちらもジョンの曲。



初の主演映画の主題歌もジョンの

「A Hard Days Night」でした。


2度目の映画もジョンの「Help!」がテ-マ曲。



ポ-ルだって、「I Saw Her Standing There」

「All My Loving」「And I Love Her」

「Can't By Me Love」など負けてはいませんが、


それでも存在感を含めると全体的にはジョン優勢でした。



ジョンはまだバリバリにやる気があって、

『俺はこのバンドのリ-ダ-だ!』という強い自覚もありましたから。



...そこに1つの転機が訪れます。


『スクランブルエッグ』の事です。


ポ-ルは夢の中でとても美しい曲を聴きます。

そのままジェ-ンの家のベッドで目覚めたポ-ルでしたが、


『僕はまだその曲のメロディーを覚えている.....!』


ポ-ルはベッドの横にあったピアノでそれを弾いてみる。


美しい。


歌詞は何も思い付かなくて、朝食前だったから

取り敢えず「スクランブルエッグ」と仮に名付け、


『だけどこんなに簡単に出来てしまうなんて...

もしかすると、過去に聴いた誰かの曲を思い出した

だけなのかも知れない』



ポ-ルは周りにいる出来る限りの知り合い、

ミュージシャン、音楽関係者に曲を聴かせるも、


『聴いた事ないね』『いや~知らないよ』


ジョンに聴かせると、


『.....それは間違いなく君の曲だよ』。




この話は『曲が降ってきた』くだりばかりに注目が集まりますが、


この出来事こそがビ-トルズ崩壊への第一歩でした。



ここで力関係に大きな変化が起こるんです。

詰まり、ジョン→ポ-ルへ、と。


そして、バンド内の単独行動のはじまりです。




この夢を見た日が特定出来ないんですが、

プロデューサーのジョ-ジ・マ-ティンが

『はじめてこの曲を聴かされたのは

1964年の1月だった』、


と証言しています。



この曲が「Yesterday」として日の目を見たのは

1965年8月に発売された『HELP!』というアルバムの

B面としてでした。



不思議だとは思いませんか??


これは相当な名曲ですよ。


メロディーよりも歌詞重視のジョンは、


『メロディーはすごいけど、詩は大した事ない』

という評価だったそうですが、


それでも大名曲には違いありません。



それなのに、1年以上放置された挙げ句、

シングルとしても出されず、

アルバムの取るに足らない1曲のような扱い。


しかも、『HELP!』は主演映画用のアルバムでもあった訳なんですが、


映画にすら使用されていません。

(映画内で使われた曲はA面に固められている)



もう違和感しかありませんよね。



これには理由があります。


大きく云うと2つ。


①ビ-トルズはあくまで『ロック』バンドとしてのイメージを保とうとしていたので、

過度に感傷的なこの曲を発表しづらかった。


②この曲はポ-ル一人にスポットライトが当たり過ぎた構成なので、

バンド感が薄れてしまう。



...というモノ。



しかし、今までにも感傷的な曲はあったように思いますし、


ジョンだけが随分目立っているような曲もあったかと思いますけどね。



まぁ、確かにアルバムにおさめられている
「Yesterday」の演奏には

ポ-ル以外のビ-トルズメンバーはまったく参加しておらず、


それ以外のストリングスなどは外部のミュージシャンによる演奏でした。


そういうパターンは初めてでしたね。



が、ほんとうの所を云ってしまえば、これは

ジョンの嫉妬をポ-ルが恐れた結果です。



それが露呈する事件が起きてしまいました。


1965年8月1日、イギリスのブラックプ-ルという

場所のライヴで、


ポ-ルが初めて「Yesterday」を披露した舞台でした。



他の3人は舞台裏へはけて、ポ-ル一人で

ギター弾き語りで歌うスタイルです。



こういう曲の披露の仕方はビ-トルズ初でした。


なので、照れもあったのだと思います。

 
リハーサルの時点から、いくつか子芝居を用意していた様です。



まず、ジョ-ジが、


『次はリヴァプ-ルから来たポ-ル・マッカートニーが歌います、オポチュニティ・ノックス!』


と紹介してはけていきます。



『オポチュニティ・ノックス』とは当時イギリスで

流行っていた『スター誕生!』のような

オーディション番組の事です。


いわゆる茶化している訳ですね。




ポ-ルはそれにも冷静に『ありがとう、ジョ-ジ』
と返します。



そして演奏は無事に終了。


ジョンが花束を持ってやって来ます。


ここもリハーサルにあったようでポ-ルも難なく受けとるんですが、


ジョンが去っていった後、ポ-ルが自分の手元を

見てみると、



『茎しかない!?』



そう、ジョンは茎と花束を分離させていて、

ポ-ルに茎だけ握らせて花は持って帰ってしまったのです。



驚くポ-ルを横にジョンがとどめの一言、


『サンキュー、リンゴ!素晴らしかったよ』



...恐ろしいですね(笑)


この後も何度かポ-ル一人の弾き語り形態で披露されますが、


途中から4人でのバンド演奏に変更になってます。


1966年の来日公演、いわゆる武道館の時の「Yesterday」は

4人で演奏していました。



このように、なかなか辛辣な目にもあったポ-ルでしたが、

一度やってしまえば恐くない。



バンド全体もライヴが段々イヤになってきて、

スタジオミュージシャンになってしまおうか、


という意見が出てくる時期に突入すると、


ポ-ルの才能は一気に開花します。



そして、66年にジョンがヨ-コと出会って

ビ-トルズへの関心を著しく失っていくのと逆に


ポ-ルの独裁政治がはじまるのです。




長くなってきましたので、続きは次回。


では、また。